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この国の政治はどっちを向いているのか?〜沖縄の民意と辺野古埋立て強行〜 [時事雑感系]

今日12月14日は、小生たちの世代はこれまで、赤穂浪士の討入りの日として記憶してきたが、今日からは「別の日」として覚えることになるのかもしれない。それは、この国が最も愚かな工事を強行した日としてだ。沖縄、辺野古新基地建設工事の土砂投入の話だ。

政府は今日午前中にも、辺野古沖への土砂の投入を強行するかもしれないという。現地では多くの島民や本土からの支援者たちが阻止に向けた行動を行なっているが、力をもって阻止することは困難だ。TVの映像で見たところでは、反対派よりもはるかに多くの警察官が、座り込んだ人々を取り巻き、その場所から動くことさえ困難なように見えた。全く異常な状態だ。

沖縄ではこれまで何度も選挙で民意が示されてきた。一部例外もあるが、多くは「辺野古新基地建設NO!」の意思を示してきたと思う。最も象徴的だったのは玉城知事の誕生だ。玉城知事は、一貫して島民の思いに寄り添い、政府との対話の試みや米国に渡っての当局者との面談などを行なってきた。しかしこれに対する政府の対応は冷淡そのものだ。故翁長知事の場合などは会うことさえも拒み続けてきたわけで、民意というものを一体どう考えているのかと思ってしまう。全くこの国の政治は、どっちを向いて、誰のために行われているのか、本当に呆れてしまう。

今こうしている間にも、土砂の投入が行われてしまうかもしれないと思うと、居ても立っても居られない気持ちだ。これまでもさまざまな工事が行われてきているが、陸上での工事などと違って海中への土砂の投入は、後戻りできない環境の破壊をもたらすに違いない。

もしかすると政府は、これを強行することで、反対派の人々が「あきらめる」ことを目論んでいるのかもしれないが、それは見込違いも甚だしいと思う。この工事の強行は沖縄の人々の政府への不信を修復不能なまでに高めてしまうことになりかねないだろう。

小生は、今沖縄で起きていること、そして今日沖縄で起きようとしていることを、しっかり見ておこうと思う。よく記憶しておこうと思う。政府にとって「民意」とは何なのか、政治とは一体誰のためのものなのかを考えながらだ。

今回の辺野古での暴挙は、そっくりそのまま小生たちにも牙を向く政府の姿だ。今国会で強引に成立させられた二つの法案、つまり「入管難民法改正案」「水道民営化法案」なども併せ、この政権が進める政策の底に流れるものが何なのか、小生たちはしっかり見極めて次の政治参加の機会に活かしていかなければと思う。政治とは自分の暮らしのことなのだから。

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「関西」「北海道」二つの大災害に思う~「国民の安全」とは?~ [時事雑感系]

 関西への台風襲来に続いて北海道での地震、1週間のうちに2つの大災害が起こった。どちらの地域にも「明日」という日を絶たれた大勢の方々がいる。どうにもやりきれない気持ちだ。心からご冥福をお祈りします。

 二つの大災害に際して、共通するキーワードが一つあった。「想定外」という言葉だ。・・・ん?この言葉、以前どこかで聞いたぞ。・・・そう、2011年東日本大震災の折の大津波のときによく使われていた。この時の「想定外」は巨大な防潮堤を越えて街を押し流し、原発の冷却電源を破壊して炉心溶融を引き起こした。この爪痕はいまだに全く癒されないままに残っている。

 そして今回の想定外、ひとつは滑走路の冠水や連絡橋へのタンカー衝突で機能を喪失した関西空港の、高潮対策等の課題だ。関空では埋立地に作られた施設の地盤沈下(最大3メートル以上にもなるという!)の問題もあり、高潮対策が以前から課題になっていたという。防潮壁のかさ上げで凌ぐことにしたらしいが「甘かった」ということだろう。

 北海道の想定外はさまざまあると思うが、最も多くの人たちに影響を及ぼしたのは、北海道最大の火力発電所の緊急停止に端を発した「全道停電」だろう。もっともこの発電所に多くを頼ることの危険性は認識されていたようで、来年2月にも新しい火力発電所が出来上がる運びだったという。こちらは「間に合わなかった」ということか。

 いずれにしても「想定外」というのは便利な言葉だが、これで片づけられてしまうのでは、あの東日本大震災の教訓は何だったのかと思う。あのときに「想定」を見直すことの大切さをみんなが学んだのではなかったのか。

 大きな災害が起こるたびに思うのだが、この国に住む小生たちの「安全」とは一体何か?ということだ。今この国の政治を引っ張っている政治家たちは、折に触れ「政治の責任とは国民の生命と財産を守ることだ、国民の安全・安心が大切だ」とというようなことを言って、軍事的なパワーの強化と近隣国との領土トラブルへの強気な対応を図ることが大事なような主張をするが、小生はそれより先にやることがあるのではないかと思えてならない。

 よく考えてみよう。今のこの国で、現実に最も国民の安全・安心を損なっているのはなにか?一番国民の生命と財産を奪っているのはなにか?少なくとも軍事・外交的な問題や領土問題ではないだろう。

 災害にはどうしようもなく不可抗力なものもあるに違いない。しかし東日本大震災以降は、災害の「想定」を抜本的に変えることが必要と、多くの人が思ったのではないか。そしてそういう目線で検討し、国の政策で金をかければ、防げる被害もまた多くあるのではないかと思う。

 小生は、軍事・外交や領土問題を脇に置いて、国内の災害対策だけやっていればいいなどというつもりはない。それをやったら「ジャパン・ファースト」になってしまう。しかしものごとには「大事な順番」があるのではないかということだ。

 おりしも自民党の総裁選がスタートした。この国のリーダーを選ぶ代表選挙だ。現総裁が7割~8割獲得しての圧勝と言われているし、多くの与党の議員さんたちも「勝ち馬に乗る」つもりでいるように見えるが、心からそれでいいと思っているのだろうか。もしホントにそうなのだとしたら、世間一般の感覚とは相当ずれていると思わざるを得ない。この国の将来が本気で心配になる。

 大災害ですっかりかすんでしまった感もあるが、経済政策にしろ、憲法問題にしろ、重要な争点が沢山ある。ぜひ大いに政策論を戦わせて実のある代表選をやってもらいたいものだと思う。まあ小生のような「部外者」が言うことではないのかもしれないが、国のかじ取りを心配しているのは「党員」だけではないのだから。

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「潔さ」ということ〜「悪質タックル」事件に思う〜 [時事雑感系]

「悪質タックル」の日大アメフット部の選手が記者会見を行った。20歳、大学生の身分でありながら、自らの姿を明らかにして、事実関係と心情を語るその姿に先ず感じたのは当該の学生の「潔さ」だ。逆に、このような会見が大学側の関与なしに開かれたことに対しては、大きな疑問と大学に対する失望を感じた。

 教育の場である大学に所属するチームで起こった事件である。仮に学生に何らかの非があろうとも、最終的な責任は大学そのものが負うべきなのではないか。今回の日本大学の対応には、学生に対する愛情や思いやりが感じられない。日大アメフット部は「日本一」のチームだというが、こうした環境で日々の練習を行っている選手たちはどう感じているだろうか。

 スポーツには勝つことの大切さはあるだろう。そしてそのための厳しさもあるに違いない。しかし「勝つこと」のみが目的になり、そのためなら手段を選ばないような行為は、明らかに間違っている。それは、スポーツが人間を成長させるのではなく、人間の大切な「こころ」を壊すことにつながってしまいかねないと思うからだ。今回の事件の背景には、勝利のためには大切な選手さえも「使い捨て」も厭わないような空気を感じる。全く門外漢の小生などにはわからないこともあるのかもしれないが、人間を大切にできないスポーツに価値があるとは思えない。

 翻って、政治の世界での「潔さ」の話。加計問題で愛媛県側から新たな資料が示された。2年も前に官邸で加計氏と安部総理が面談し、獣医学部新設の話をして、総理も「いいね」のコメントをしていたという。これに対して安部総理はまたもや否定をしているようだ。

 今回の記録も愛媛県の担当者が報告用にまとめたものだというが、もし安倍総理の言うとおり「会っていない」「聞いていない」「話していない」とすれば、愛媛県職員は一体何のためにこのような文書を作ったのか。しかもこの問題が大きく取り上げられる2年も前にである。安倍総理は官邸の来訪者記録や新聞の動静欄に記載がないことなどを盾に全否定しているようだが、あまりにも不自然だ。どちらが正しいかは火を見るよりも明らかに思える。

 森友問題でも、今回の一連の加計問題でも、どうやら安倍総理とその周辺の人々の一貫したスタンスは「証拠がなければ何ら問題ない」ということのようだ。今回の文書などは十分な「証拠」と思えるが、それさえも否定できるとは恐れ入る。「記録」よりも「記憶」が優先するのだからたいしたものだ。

ここで考えるのは「潔さ」という問題だ。小生は「潔さ」は心の問題だと思っている。その人の生き様、美学、モラルなど、様々な要素が相まってもたらされる「生き方」そのものだと思う。そこには「証拠の有無」など入り込む余地はない。その人の心が許せるかどうかという問題だからだ。

この間の一連の問題でよくメディアに登場する皆さん、総理をはじめ有力閣僚、党要職の方々などの政治家や霞ヶ関の官僚の皆さんの姿からは、残念ながら「潔さ」が感じられない。確たる証拠がないのをいいことに「しらを切っている」ように見えてしまうからだ。まあ、真実は神のみぞ知ることかもしれないが、疑念を払拭できない事態を招いた場合の身の振り方というものがあるのではないか。そこが「潔さ」だと思う。

今回の出来事は華やかなスポーツの世界の裏側の姿の一端を晒すことになったが、これは良い機会だったのではないかと思う。また、記者会見を開いた学生は、失ったものもあるかもしれないが、それ以上に大きなものを得るのではないかと思う。ぜひ「潔さ」という宝を大切にして、これから人生という大きなゲームを進めていただきたい。そんなことを感じた。

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これこそ教育の「不当な支配」ではないのか?~前川氏の講演問題~ [時事雑感系]

 前文部科学事務次官の前川氏が、名古屋市の公立中学校で行った授業(講話)に関して、文科省が「おどし」や「いやがらせ」とも取れるような「確認」を行っていた。報道されている内容によれば、文科省は、前川氏の天下り問題による辞職や「出会い系バー」への出入りなどに触れた上で、説明を求める質問状をメールで送っていたという。

 文科省のこうしたアクションの背景には、自民党の「文部科学部会」に所属する議員からの「問い合わせ」があったようだ。このことについて当の自民党議員氏は「・・・法令に準拠した授業だったかどうか・・・地元の人の懸念があればその声を国に届けることは大切な仕事・・・」と言っているらしいが、これまでも国が学校に、現場での授業の内容についてよく「質問」をしていたというのだろうか。もしそうだとしたらこれはこれで大きな問題だ。国と地方の力関係からみて、到底対等の立場でのやりとりとは思えず、「圧力」であることが明らかだからだ。

 そもそも1947年に制定されたの教育基本法は「教育は、不当な支配に服することなく」と定めている。吉田茂内閣が1946年に設けた教育刷新委員会で、幣原喜重郎元首相の「今回の敗戦を招いた原因はせんじ詰めれば教育の誤りにあった」という問題意識から盛り込まれたといわれている。

 戦前、教育勅語を足がかりにして、軍部が国家主義的な教育を押しつけた歴史に鑑みて、1947年の衆院教育基本法案特別委員会では、旧文部省は、「不当な支配」に関して「従来官僚とか一部の政党とか、不当な外部的な干渉によって教育の内容がゆがめられた」と説明し、教育現場の自主性を重視してきていたはずだ。実際に文科省のホームページにも教育基本法の意義について「党派的な不当な支配の介入があってはならない」との解説を載せている。

 林文部科学大臣によれば「必要に応じて教委に問い合わせや事実確認をするのは通常のこと」として法律的に問題はないとのスタンスのようだが、問い合わせメールの内容は「執拗」ともいえるいやらしさだ。これを圧力と感じないほど鈍感な官僚がいるとも思えない。元文科官僚の寺脇研氏も「内容が法律や学習指導要領に反しているならともかく、市教委が適切と判断して認めたことを、さらに問い合わせるのは異常だ」と疑問を投げかけている。

 小生も昔のブログに書いた記憶があるが、2006年、第1次安倍政権のときの教育基本法の「改正」では「不当な支配に服することなく」に続く規定が「国民全体に対し直接に責任を負って行われる」となっていたものが、「法律の定めるところにより行われる」に置き換えられた。
※jmhの昔のブログ記事はこちら↓
http://xl1200s.blog.so-net.ne.jp/2006-11-16

 それまで教育の政治からの中立性を保障する規定だったものが、多数決による政治の力で左右されるような事態も考えられ、「国家権力が教育内容に介入することが可能になってしまう」という懸念が出ていた。このため、当時の伊吹文明文科相が国会で「不当な支配かどうかは司法で最終的な結論が出るのが日本の統治システムだ」と確認した経緯がある。

 今回の出来事は、まさに「国の教育への介入」であるとともに、政権にとって不都合な人物を社会から排除するような意図も感じられ背筋が寒くなる。前川氏は最近長野県で行われた講演の折に「質問状を送り付けたのは前代未聞で、不当な支配に当たる」という認識を示すとともに、文科省の対応には「情けない。現場を不当な政治的介入から守るのが仕事なのに、教育行政として果たすべきことを果たしていない」と述べたという。全く同感だ。

 この問題、一退官者の講演を巡る騒動などではない。憲法と教育基本法の理念に照らして現在の政権の振る舞いをどう評価するかという問題だ。今回のことや森友問題などを見るにつけ、官僚が行う仕事の目線が一体どこを向いているのかということを感じてしまう。かつて前川氏が言った「行政の公平・公正」が損なわれたという表現が、最もよく本質を表していると思う。全く残念なことなのだが、そういう現実を感じてしまう。「国家百年の計」がこんな姿でいいとはとても思えない。

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「メンタルヘルス」の問題か?~米国の銃乱射事件~ [時事雑感系]

 米国でまたなんとも痛ましい事件が起きてしまった。高校で若者が銃を乱射し、17人が犠牲になったという。いったい同じ事件を何度繰り返すのか。問題の所在は明らかなのに、一向に解決に向けた動きにつながらない。小生の感覚では全く理解できない、あの国にある深い闇の一つが銃規制の問題だ。

 トランプ大統領は今回の事件について「命の尊さを重んじ、深く意義深い人間関係を構築する文化を、米国に作らなければならない」「政府は州や地元自治体の指導者と協力し、学校を救い、メンタルヘルスという難しい問題に取り組む」と語ったという。そして銃規制には一言も触れなかったらしい。またツイッターでも「容疑者は精神的に不安定という多くの兆候があり、素行の悪さで退学となっていた」と、事件の容疑者の精神状態を問題視する書き込みを行っているという。

 たしかに「命の尊さを重んじる文化」は何よりも大切だし「メンタルヘルス」の問題も重要だ。しかし問題はそこではないだろう。ましてや「精神的な不安定」や「素行の悪さ」至っては、何をか言わんやだ。トランプ氏は、昨年10月にラスベガスで起きた、死者58人という米史上最悪の銃乱射事件の際にも、事件の背景が分からないとの理由で、銃規制に関する発言を拒んでいたという。

 いかに大統領選で銃規制に反対する全米ライフル協会(NRA)の支持を受けて当選したとはいえ、これほどに大勢の尊い命が失われる事件が相次いで発生する事態に直面しても、最も効果的な対策と思える銃規制に踏み込めない、ましてや「銃規制」という言葉さえも避けて通るような姿勢は、どうにも理解できない。トランプ氏がよほどどうかしているのか、または米国という社会がよほど特殊なのか・・・。全くわからない。

 トランプ氏の発言や行動は、多くがこれまでも物議を醸してきたが、最近の北朝鮮を巡る一連の発言や、エルサレムに関する発言など、どれも世界に混乱を引き起こしている。かつていろいろな意味で世界をリードしてきた米国の姿は、今大きく様変わりしているように見える。

 そんな米国を相変わらず最大の「同盟国」(考えてみればこの言葉もいつから使われ始めたのか?同盟など結んだことはないと思うのだが)として追従しているのが小生たちの国だ。とりわけ安倍総理とその周辺の皆さんは、米国には一言たりとも物を言ってはいけないと思っているようで、たびたび起こる米軍機の事故や米兵の事件などにも、えらく「寛容」だ。とりわけ沖縄の基地移転の問題など、政府が誰の味方なのかさえわからない始末だ。

 先日トランプ氏が小型核兵器の開発なども含む「核体勢の見直し」に言及した際にも、河野外務大臣は「高く評価」していたようだ。唯一の被爆国の外務大臣の発言とは思えないが、この人も「核の傘」を信じているのかと思うとがっかりだ。よもや今回の銃乱射に対するトランプ氏のコメントを「高く評価」はしないとは思うが、今様々な場面で生じている「米国の歪み」をしっかりと直視して付き合っていくことが必要だと思う。このままだと、米国と仲良しであることが大きなリスクになりかねない。近頃そんなことを感じている。
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落としどころを探れないのか?~「日韓合意」で韓国「新方針」~ [時事雑感系]

 1月15日、読売新聞社が行った世論調査の結果が公表された。これによると、慰安婦問題を巡る2015年の日韓合意について、韓国政府からの追加要求には応じないとする日本政府の方針を「支持する」と答えた人は83%に上ったという。文在寅(ムンジェイン)大統領の追加の対応を求める新方針に「納得できない」は86%に上り、韓国を「信頼できない」と思う人は、「あまり」と「全く」を合わせて計78%に達したという。圧倒的な数字だ。

 この問題について、安倍首相の記者会見での発言では「合意は国と国との約束で、これを守ることは国際的かつ普遍的な原則だ。韓国側が一方的にさらなる措置を求めることは、まったく受け入れることはできない」ということであり、これは普通に考えて「もっとも」なことのように思える。

 しかし小生は、この問題が生じてからの日本政府の対応が、あまりにも頑なで、「1ミリも動かさない」なんてなんだか子供じみてさえいるように思えてならなかった。いわば、先の世論調査の結果から見れば、圧倒的少数派のへそ曲がりといえる。そんな風に思っていたところ、評論家で元外務省国際情報局長の孫崎享氏の記事を見つけた。

 「公式文書すらない日韓合意、韓国の見直しを非難する安倍首相のほうが異常で非常識」と題する「ビジネスジャーナル」の記事だ。

http://biz-journal.jp/2018/01/post_22002.html

 もともとの合意内容と新方針(どちらも参照必須!)についても記載された長い記事なので、詳細はサイトを参照していただきたいが、要点を極めて乱暴にまとめれば、以下のようになる。

1.今回の合意は「条約」でも「行政レベルの合意書」でもなく、「署名なしの合意」、いわゆる「口頭約束」である。署名つきの合意でも拘束は行政機関の存続期間に限られるため、新たな政権に順守を求めるのなら、新たな約束を取り付ける必要があるのではないか。
(例)「日米同盟未来のための変革と再編」という文書は、2005年以降日本側の政権が交代するたびに日米間で順守を確認している。

2.民主主義(国民主権)体制の国では、主要政策は選挙後変更されることがある。国民の関心が高い問題で新政権が方針を変えることは異常ではないし、外相間で署名を得ていない合意から離れることは十分あり得る。
(例)米国(トランプ政権)のTPP、NAFTA(北米自由貿易協定)からの離脱、英国のEUからの離脱など。

3.2015年の合意発表の際に「最終的かつ不可逆的に解決される」と述べたことは、旧政権外交責任者に責任がある。しかし「できないこと」を「できるふり」をした両国政府の責任でもある。

 以上だ。まあ、政府間の約束事を簡単に反故にされてしまうのでは困るが、韓国政府も国内世論と日本との関係の板挟みで苦しい立場だろう。「新方針」にはかなり苦心した様子が見て取れる。「1ミリも動かさない」頑なな態度よりも、相手の苦境に理解を示せる大人な対応のほうが、今後のためには大いに役立つのではないかと思う。

 最近のニュースを見ていて思うのだが、安倍政権の「中国」「韓国」「北朝鮮」へのばかに強気な姿勢と米国への盲従的な姿勢が極端になってきていると感じる。また、「北」や「中国」の脅威を煽って、効果のほども定かではない米国製の超高額兵器購入やまるで航空母艦まがいの「護衛艦」の建造を進めているが、「国民の命と暮らし」を守るのは軍事力だと本気で思っているのだろうか。

 残念なニュースもある、2017年のノーベル平和賞を受賞した「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN〈アイキャン〉)の事務局長ベアトリスさんが、来日に伴い安倍首相との面会を求めていたが、外務省から「日程の都合があわず難しい」と断られたという。唯一の被爆国の首相が核兵器廃絶の運動に背を向ける姿を、国際社会はどう見るだろう。

 孫崎氏は、先の記事の中で、日韓合意の問題で「安倍首相の異常さを指摘する声が聞かれない日本という社会が、相当深刻な異常段階に入っている」と述べているが、国際的な評価を受けてノーベル賞を受賞した団体に敬意を払うどころか、リーダーが逃げ回っているようなこの国も「変な国」に見えてしまうのではないか。とても心配だ。
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「謙虚」とはほど遠い自民党~野党の質疑時間を縮小とは!~ [時事雑感系]

 総選挙で勝利した自民党、安倍氏や幹部がやたらに「謙虚」という言葉を多発していたが、これがまったく口先だけであることがはっきりした。国会における野党の質疑時間を大幅に縮小したいという方向を自民党が打ち出した。
 
 衆院での与野党の質問時間の配分は、これまで慣例で、野党8割、与党2割としてきたということだが、これを、議席数に応じた比率、つまり与党7割、野党3割にしたいというのが自民党の意向だという。野党は一斉に反発しているが、当然のことだ。

 この問題については、上西充子氏(法政大学教授)が10月29日のYahooニュース「野党質疑の短縮要請は、与党の自信のなさの表れであり、法案審議の意義を損なうもの」と題した記事で詳細に触れて下さっているので、ぜひこちらもご覧いただきたい。
https://news.yahoo.co.jp/byline/uenishimitsuko/20171029-00077505/

 上西氏によれば「議院内閣制の下で、与党は政府提出法案については、国会提出前に既にその内容の検討を終え、了承を行っている。従って、国会の法案審議において、与党と野党の果たすべき役割は大きく異なる。・・・与党の部会が十分議論した内容が法案として国会の委員会に出てくるのだから、国会の質疑時間が野党に厚く配分されているのは理にかなっている。自信をもって国会に提出された法案であれば、野党の追及に対しても的確に答弁によって反論し、理解を得ることが可能なはずだ。・・・にもかかわらず、野党の質疑時間の圧縮をねらうのは、野党の追及に耐えられないことを恐れているからではないか。」とのことだが、全くその通りだと思う。

 そもそも現在の8対2という比率も、5年前に自民党が野党だった時代に、与党民主党に強く要求して定まったものだというから、明らかに言っていることが矛盾している。また、若手議員から質問の機会を与えてほしいという要望が強いという理由も、単に「TVに映るところでやりたい」ということのように思えてならない。もししっかりした質疑をしたいのであれば、あらかじめ行われる党内の「部会」の審議に加わればいいだけの話ではないのか。

 今回の自民党の動きは、小生のようなシロウトから見ても、あまりにも「浅はか」で「姑息」、なんだか「情けない」ものに思える。与野党で磨き合ってよい政治をしていこうという空気が、この10年ほどの間にどんどん失われて、単純な「数がすべて」の政治に変わってきているように感じられてならない。

 総選挙の自民党勝利の原因のひとつは、20代~30代の若い層の自民党支持率が高かったことだと言われている。その理由は自民党に「安心感」「安定感」を感じ、野党には逆に「不安感」を覚えるということらしいが、訴える政策の中身よりもイメージが先行する風潮というのはとても心配だ。ともすれば「大きなもの」「強い力」が「正しいもの」に見えてしまいがちだからだ。

 大きな権力を手にした者にこそ求められるのが「奢らないこと」「謙虚であること」だと思うが、一強といわれる現在の自民党はどうか。強引な国会運営、いろいろな疑惑への不誠実な態度、果ては大義なき選挙、そして今回の国会運営にまつわる動き・・・。自民党内にも長らくこの国を率いてこられたベテラン議員さんが大勢おられることだろうが、今のこういった状況をどう見ているのだろうか。自民党内からの声はあまり聞こえてこないように思える。・・・ということは、もしかしたら小生たちは、ブレーキの効かなくなったクルマに乗せられてしまっているのかもしれない。なんともオソロシイことだ。

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国政選挙のマジック?~得票4割以下でも、議席6割以上とは!~ [時事雑感系]

 衆院選が終わった。「自公が勝利」「希望は失速」「立憲が健闘」という結果は、おおむね事前の予測通りで、こんなに「当たってしまう」なら選挙の面白さもないなあ・・・などと思ってしまった。

 今回の投票率は全国平均で53.68%だそうだ。期日前投票が大幅に増えたとのことなので期待してみたが、結果は前回を若干上回る程度だった。まあ、台風の影響も考えれば、これでも立派なものなんだろうか?それにしても有権者の半分近くが選挙に行かない国なんて、世界中に他にないんじゃないか。

 国のリーダーはこんな状態をどう思っているのだろうか?この国の政治の仕組みは「みんなが参加する」ことで成り立つようにできている。よほど真剣に考えるべき課題だと思うが、どうも本気の対策が講じられる様子もない。こんな状態を、よもや「都合がいい」などと思ってはいないのだろうが...。

 さて、本題だ。これは選挙があるたびにいつも言われていることなのだが、有権者の意思が投票によってちゃんと国政に反映されているのかという問題だ。今回の選挙結果を小生なりにまとめたものが、下の表だ。

2017sousennkyodata.jpg

 これを見ると、比例区の各党の得票比率は事前の世論調査などで示されたものと大きく変わらないように見える。おそらくこれが有権者の政党支持の実際のところなのだろう。ところが、これが小選挙区の当選者数で見ると著しく異なる。自民党が4分の3を占めてしまうのだ。小生の住む群馬県も代表的な保守王国だから、小選挙区5議席全部が自民党で占められている。こんな県が全国のあちこちにあるのだろう。

 まあ、「一番」の候補者がその選挙区のすべての票を持って行く「総取り」方式が、小選挙区制度の特徴だから当然のことなのだが、それを補うとされている「比例代表」を加味しても、当選者の比率は政党支持の比率とは相当かけ離れている。これで民意がちゃんと反映されているといえるのだろうか?どうにも疑問だ。「一票の格差」が裁判にまでなっているが、小生はこの制度(小選挙区制度)そのものこそが問題だと思っている。

 なぜ今さらこんな話を持ち出したのかというと、選挙後各新聞が報じている安倍総理の記者会見内容が気になったからだ。安倍氏は「改憲に意欲」を見せているというのだが、与野党で「合意形成に努める」といいながら、野党第1党、つまり立憲民主党と合意できなくとも、合意できる党だけで改憲発議をめざすという考えらしい。これは結局最終的には「数の論理」で改憲に進むということだ。

 総選挙によって与党は大きな議席を得るに至った。そのことは紛れもない事実だが、その数に表れない有権者・国民の意思があることにも思いを致すべきだろう。民主主義は「多数決主義」ではなく「少数意見の尊重」こそが大切と言われるが、その通りだと思う。とりわけ憲法は「国の姿」であり「国のあり方」を示す理念の法だと小生は思う。なぜ憲法を変えなければならないのか?変えなければできないことは何なのか?安倍首相にはぜひそのことについての「丁寧な説明」をしていただきたい。もちろん「もり・かけ」の疑念を晴らした上でだ。

 
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どうなる?衆院選~「ひとり600円」の政治参加を!~ [時事雑感系]

 衆院選がもう終盤にさしかかる。これまでの情勢分析では「与党盤石」「自公で300議席」などだが、この数字、小生には何とも信じがたい。なぜなら、小生の周りにいる人々のほとんど全部が安倍政権の政治ににうんざりしているからだ。いったい何が与党を「盤石」にしているのだろう。

 各種世論調査などでは、政党支持率、内閣支持率ともにそう高くはないものの、大きく減らしている様子もない。40%付近のところで安定してしまっている。また「無党派・支持政党なし」の30~40%も大きな変化はない。ということは、残りの20~30%をいわゆる「野党」で分け合っていることになるわけで、これは無党派を動かすよほど大きな出来事がなければ、政権交代は起こりえないということだろう。

 今回の「台風の目」と目されていた希望の党は、都知事選、都議選の勢いで国政に打って出ようとしたのだろうが、そもそも期待の東京都内で「築地移転問題」などがくすぶっていることに加え、民進党との「合流」に際しての小池代表の発言、「さらさら」「排除」に反発が広がり、今や「失速」の様相らしい。

 かたや希望の党に「排除」された民進リベラルが立ち上げた「立憲民主党」は、ある意味「ふっ切れたわかりやすさ」が受けているのか、想像以上に健闘しているようだ。特にインターネット上での存在感は抜群だ。ツイッターのフォロワーが一晩で5万件を超え、わずか数日で自民党が何年もかけて積み上げてきた数字をあっという間に抜き去ってしまったというから驚きだ。

 しかし、二大政党制の確立をめざして「幅広く」結集し、一度は政権を取ることに成功した民進党(旧民主党)は、無所属も含めて3分裂することになった。このことが結果的に自公勢力を利することになってしまっているのではないだろうか。また、やや勢いを失ってきているとはいえ、相当数の旧民進党議員を擁することとなった「希望の党」だが、小池氏は多分に「タカ派」な人物だ。この党が選挙後にどんな振る舞い方をするのか、こちらも心配の種だ。

 中盤の情勢でも全体の構図は大きく変わらないようだが、違っているのは期日前投票を行った人の数が前回の参院選の1.5倍に上っているらしいということだ。これが何を示すのかわからないが、さるテレビ番組のコメンテーター氏は「期日前投票の数は投票率のひとつのバロメーターにはなり得る」との見解だった。

 小生が考える今回の選挙の争点は、1にも、2にも「安倍政治」そのものだ。選挙応援の演説で安倍氏は盛んに「アベノミクス」の成果を強調しているが、国の統計規模の大きな数字がいかに上向いても庶民の生活実感が伴わなければ意味をなさないと思う。そもそも「経済」という言葉のもとになった「経世済民」とは「国を治めて、民を救済する」という意味だそうだ。国や一部の国につながる者たちが富んで、民がやせ細るような政策は「経済」ではないだろう。

 選挙まであと5日ほど。まだまだ先はわからない。結果がどうなろうと願うことは一つ。民意がしっかり反映される選挙になることだ。投票率が95%にものぼるというオーストラリアは、罰則規定(罰金)を設けているらしい。極端な例かもしれないが、本気で投票率を上げるつもりがあるなら検討に値するだろう。

 今回の総選挙でかかる費用は600億円以上だという。有権者ひとりあたりにすれば600円以上、棄権した場合はその分が「ドブに捨てられる」ことになる。なんともモッタイナイ話だ。これが無駄遣いになるかどうかは、小生たち一人ひとりの行動次第だ。「政治は自分のくらしのこと」と考えて、貴重な政治参加のチャンスを生かしたい。

※おまけの話
 前の記事でも書いたが、今回、立憲民主党がネットで大躍進しているとの情報を得て、遅ればせながら小生もこの流れに乗ってみようと、今まで手を出しかねていたツイッターやフェイスブックのアカウントを作ってしまった。はじめてみたらフェイスブックは特に便利で、お手軽で、すっかりはまりそうだ。しかしおかげでこのブログ更新はさらに「気まぐれ」になってしまいそうだ。
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がんばれ!立憲民主党~ツイッター10万フォロワーのびっくり!!~ [時事雑感系]

 「大義なき解散」による無理矢理の総選挙は、「希望の党」の参戦で、このままではこの国は「タカ派二大保守勢力」に支配されてしまうと心配をしていたが、やや風向きが変わってきたようだ。

 マエハラ民進党の「希望」への丸ごと合流が頓挫する経緯の中でコイケ氏が発した言葉「さらさらない」や「排除します」、また候補者とコイケ代表との写真撮影の「有料化」、さらにはおひざもとである都民ファーストの会の有力議員の造反など、希望の党にはどうもあまり芳しくない風が吹いてきたように思える。

 また、エダノ氏が「排除」されたメンバーを中心に立ち上げた「立憲民主党」には、ネット上での応援がすさまじく、ツイッターのフォロワー数が一晩で5万超え、二日も経たないうちに10万を超えた。この数字、既成政党を次々と抜き去って、フォロワー数が最大の自民党の11万に迫るというのだから驚きだ。対する「希望の党」のフォロワーはいまだ数千単位だという。いったい何が起こっているのだろうか。

↓立憲民主党のツイッターはこちら↓
https://twitter.com/CDP2017

 こんなニュースを目にして、今まで興味を示してこなかった小生までが、「ツイッター」と「フェイスブック」のアカウントを取得してしまった。慣れない手つきでタブレットを操作し、ツイッターを眺めていると、まさにリアルタイムで情報が載せられていく。これはたしかに情報の素早い拡散が可能だ。まさに新時代の情報ツールだ。

 しかし、これまでよく「リベラルはITに弱い」と言われていたのではなかったか。よく小生が参加する「そっち系」の集会でも、参加者の年齢はけっこう高めで、小生を含めあまりITを駆使する雰囲気ではない。政治を扱っているブログなど見ても、どちらかというと「右寄り」の人たちの主張の方が目についていた。それが今回は堰を切ったように、今までどちらかというと「小さくなっている」ように見えていた「リベラル」に流れ込んでいるようだ。

 そこでふと思いついた。これはまるで「あのとき」のようじゃないか!そう、2012年の「さようなら原発集会」、代々木に集まった10万人の熱気で、本当に「世の中が変わる」のではないかと思えたあの集会の前後の盛り上がりだ。そしてその後にもあったあのとき、安保法制に反対して国会前に連日集まったあの人たちの熱気だ。

 それぞれの行動はその都度大きな壁に阻まれるかたちで収束してきたが、今回のこの盛り上がりを見ると、これまで行動を経験してきた人たちの中に「ものを言うこと」、つまりひとりひとりが自分で考え、発言し、行動するというスタイルが確実に根をおろしてきたということではないのか。そして、これこそが「民主主義」なのだと思う。

 アベ+コイケ、二大保守にはさまれて埋もれてしまうかに見えた民進党~リベラルだが、エダノというリーダーを得て勢いを取り戻した。見事にアベ氏が言うところの「ああいう人たち」の受け皿になったと思う。これまで「どっちつかず」の民進党でなんとなく燃焼しきれない感じだった国・地方の議員の皆さんには、ぜひ水を得た魚のごとく存分に活躍してほしい。この国を「あきらめない」人たちがこんなにもたくさんいるのだから。
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